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アメリカにいたら親の責任だと言われるだろう。アメリカでは学校は校内や学校行事で起こることだけに責任を持つ。その他は全て親の責任である。まるで学校の中と外は2つの別の世界のようにに扱われている。これには色々な理由があると思うが、信頼が一番大きな理由ではないのだろうか。教員は学習指導の専門家だから学習指導を任されている。だが、教育自体を教員に任せて良いのかを悩んでいる親は急増しているから専門外の生活指導を任せられる信頼を教師に対してがあまりもっていない 。 その上、親は自分の子を育てるのには自分が一番適切だと思っているから、他人である教員をあんまり信用していない。
日本では誰の責任だと思いますか?
親の責任だと言う人が多いかもしれない。子供と働く人から、よくこういうことを聞きました。「最近の子供はしつけが足りない、親はもっとしっかりして欲しい」とか「最近の子供は落ち着きがない、親はなにやっているのだろうか。」この苦情のもとには子育ては親の責任であるという考えがある。だが、この考えは現状と異なると思う。アメリカと比べると日本の親は教員や学校を信用しているけど、日本では逆に学校側や社会は親がちゃんと子育てするのを全く信用していない気がする。中高生がどこに出入りして良いかとか、夜、何時までに帰宅しなくてはいけないかとかは親ではなくて、学校側が決める。子供が何かの事件や出来事を起こしたら、親は学校に連絡しないといけないルールがあって、親ではなくて学校側がその起きたことに対応する。
どちらも良くないと思う。両側がお互いを信用して、子供のために動くべきだと思う。このバランスはどうやって築けばいいのだろうか。
皆さんはどう思いますか?
昔は悪いことをしたら、学校でもげんこつをもらうのは当たり前、廊下に立たされるのもどの親も文句を言いませんでした。そういう状況だったのである意味学校での躾が機能していたと思います。昔と比較すると今の教師は両手を縛られた状態です。これで躾のなっていない子供をしつけるのは無理でしょう。小学生ならまだしも、中学校や高校で躾のなっていない子供はなかなかなおるものではありません。そう思いませんか?
返信削除コメントありがとうございました!
返信削除そうですね。昔はそうでしたけど、今は本当に先生達は両手を縛られている状態ですね。生徒を廊下に立たせられないし、やれることは怒鳴るだけ。でも、子供は怒鳴られることに慣れて来て、あんまり効果がないと思います。違うALTからの話を聞くと、生徒達がやりたい放題の学校もあって、その学校の先生達は何も出来ない。そして生徒はそれを知っている。権力が学校側から生徒に移ったのはいつだったのだろうか。
日本の場合だけではないかも知れないけど、かつては居住地の地域に暗黙的に「子供たちを育てるコミュニティ」があったんですよね。下町や農村に見られましたが。
返信削除地域には子供たちを見る大人たちがいて、学校と家庭の間でそれなりに機能していました。それが核家族化、農村からの人の流出、個人主義の台頭…と世相の移り変わりにあわせて生活も現実的な対処も変わり今や学校と家庭の間には冷淡な公空間しかありません。それを何とかしよう、という動きもありますが。
過去のコミュニティでの「躾」が全く良かった、とは思いません。問題も多々有ります。
子育てをしていてわかるのは親が子どもを叱る態度や色んな態度を子どもが身につけてしまう、ということで…自分の子どもに対して、「こら!」「ダメ!」を連発していたら、親に対する反抗に同じ言葉が発せられて慄然としました。これじゃダメなんですよ。親は力で子どもをねじ伏せられる時期があるでしょうけれど、子どもはその態度を自分より弱いものに向けてしまいがちです(人形やぬいぐるみ遊びを観察していると解りました)。
子どもたちの「崩壊」ぶりを見るに付け大人が身につまされます。この躾で親を責めるのは半分正解。だけど残りの半分は親だけの責任にも、教師の責任にもできないところにある。それが悩ましい課題ですね。
日本は学校が児童、生徒の家庭に干渉しすぎるところがある。昔からのやり方を踏襲してきている。しかし、今は日本は訴訟社会になってきている。学校は親に任せ、家庭に干渉しないほうがいい。家庭であったことは家庭で解決させる。日本のやり方は親がなかなか自立できない。だから日本人は甘えた国民だと言われる。実は学校が関係している。
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